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「仁」とは、いったいなんだろう?

日々の生活、仕事の中で、配慮に欠けたり、誤った判断をした時に、ふと思うときがあります。

「想いを馳せる力になる」つもりが、余計なお世話になっていたり…苦笑。思いやりと、思い込みは違う。感情や思考の巡らせ方次第で、解釈も振る舞いも変わってしまう。それではもう「仁」ではない。

 

作為のない仕事、それが「仁」ではないか?

 

かといって、考えずに流れに任せるという態度では、役立たずになってしまう。クライアントとクリエイティブな時間を過ごすとき、アウトプットにたいして臆病になったら、ここに記したことを忘れないでおこうと思い、書き綴りました。

正直、面倒臭い話です。よかったらご自身のお仕事や日常に照らし合わせて、お付き合いください。

それではどうぞ。

 目次

孔子の説く「仁」

老子の説く「仁」

尾崎豊が歌う「愛」

僕が果たすべきは、一隅を照らすこと

アンパンマン

野に咲く花のように

最後に

孔子の説く「仁」

孔子さんの弟子がまとめたとされる※論語という書物に、「仁」がいろんな側面で語られています。

※論語は、四書五経(儒教の経書の中で特に重要とされる四書「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の総称)のなかで最もポピュラーと言いますか、寺子屋教育で馴染み深いものは「論語」や「大学」ですね。

 

印象的なのは、論語の中にある“里仁第四”で、孔子さんがこうおっしゃっています。

 

  • 子曰く、参や吾が道は一以って之を貫く。
  • 曾子曰く、唯。子出ず。門人問うて曰く、なんの謂ぞや。
  • 曾子曰く、夫子の道は忠恕のみ。

 

孔子先生はおっしゃった、参(曾子を孔子さんが呼んだときの名)よ、私の道は1つの原理で貫いているよ。
曾子が「はい」と歯切れよく答えられた。孔子さんが満足気に出て行かれた。他の門人が「どういう意味ですか?」と問うた。
曾子は、こう答えた「先生の道はまごころ(忠)からくる思いやり(恕)だと思うよ」

 

孔子さんが様々なところで活動、交流している源は、まごころからくる思いやりなんですね。かっこいいなあ〜。

当時、儒の人たちは、葬儀屋みたいなこともしていたそうです。よこしまな儒家は、お葬式の後、墓荒らしをして財宝を盗んでたらしいです。

そんな行動は明らかに、まごころからくる思いやりの行動ではないですよね…。そんな同業者がいたから、孔子さんは仁を強調したかったんだと思います。

さらに付け加えて、孔子先生はこうも言っています。

 

  • 君子は義に喩り、小人は利に喩る。

 

君子(立派な人)は義(何が正しくて正しくないかの判断基準)に敏感だが、小人(自分さえ良ければいい人)は利(もうけ話や損得勘定)に敏感だ。

 

はい、目を瞑って、胸を手に当てて、当時のことを思い出してみましょう。

自分はお客様のために仕事をしましたか?もしくはお金のために仕事をしましたか?

SLOPのミッションは、「想いを馳せる力になる」ことだったはず。そのときに倒すべき相手は誰でしたか?

クライアントに言葉多く使って持論を突きつけて、言い負かすことでしたか?僕の倒すべき相手は「どうせムリ」という鬼じゃなかったのか?

 

思いやり(仁)からくる正しいこと(義)を漢字2文字で『仁義』になりますが、仁義って、もうなんか任侠の人みたいですね苦笑

仕事をしていて、確かにお金をもらうことは大事です。そうしていまは家賃を払ったりご飯を買って生活していますし。やった分、お金にならないと生活が成り立たなくなるのでげんなりします。かと言ってお金だけ貰ってクライアントにプラスに働かないともっとげんなりします。仮に、プラスに働いてても(プラスの事実とプラスの解釈は別です)、クライアントがそう思っていなくて、喜んでなかったら、もっともっとげんなりします…。そんなときはお金だって欲しくない。自分の存在自体消してしまいたくなるほど臆病風に吹かれてしまいます。

 

はい、話を戻して…。

この仁だの義だの、儒家の教え「儒教」は、日本精神にも多大な影響を与えています。

僕は四書五経をみなまで読み込んだわけではないですが、仁とは「思いやり」と解釈して間違いないです。

老子の説く「仁」

老子さんの説く仁は、なんというか、ブルース・リーみたい。きっとどこかでDon't think,feelみたいなこと言ってそう。

孔子さんよりも1つ雲の上に立って、まるで仙人のような感じで、仁について語っています。

 

  • 大道廃、有仁義。智慧出、有大偽

 

大道廃れて仁義あり。智慧出でて大偽あり。

のっけからストレートパンチをくらった感じです。

正しい道とか、あるべき姿が頽廃したから、ことさらに仁やら義やらを語らなきゃいけない。体系的な知識として教科書とかにまとめたり、再現性を求めようとして記録するから、もうすでに違ったもの。偽りの姿になってしまう。

 

嗚呼、これは、ほんと…膝にきますね…。言葉にすればするほど、違ってくる。表現すれば、表現するほど、形が見えてくるほど初めのインスピレーションと違ってくる。「思てたんと違う」って、デザインあるあるですし、、クライアントの思てはったんは何やったんか、うつろう依頼品質に翻弄されるデザイナーや僕自身。メンタルは、思いやりは、どこまで発揮できるだろうか。ここが勝負どころですね。

 

老子が言いたかったのは、僕なりの解釈ですが、

書いてあることとか、型式や慣習にとらわれず、シンプルに捉えてみたらどうやと。

すでに仁は、心の中にあるから。心を大切にしようぜって。

 

 

老子さんは老子さんで、なんか浮世離れしつつも、ロックなところがあって好きなんです。

例えば、僕が好きな水の話。確か、カウボーイビバップのスパイクも水の話してたなあ…。

 

  • 上善如水
  • 水善利萬物而不爭
  • 處衆人之所惡
  • 故幾於道
  • 居善地
  • 心善淵
  • 與善仁
  • 言善信
  • 正善治
  • 事善能
  • 動善時
  • 夫唯不爭
  • 故無尤

 

最上の善とは、水のようなものである。

水は、万物を利して、何物とも争わない。

人が避ける所にも流れる。

故に、道に近い。

居においては、地を固めることが善であり、

心においては、奥が深いことが善であり、

与においては、仁が有ることが善であり、

言においては、信を置くことが善であり、

政においては、法を布くことが善であり、

事においては、良く為すことが善であり、

動においては、機が整うことが善である。

いずれの場合も人と争わない、

すなわち決して誤まることがない。 

 

本当の思いやりは、日常の些細なことにあって、まるで水みたいに無味なものかもしれません。

毎朝、お母さんがお弁当を作ってくれてたり、電車が時間通り運行させようとする車掌さんの佇まいとか。

それが、当たり前のことかもしれないけれど、当たり前の反対は有難いだから、ほんとは、そんな毎日は、ありがたくて感謝しなきゃだけど、車掌さんに普段ありがとうなんて言えてないから。お金払ってるんだから、成果出して当然でしょ。という気持ちも、あるがままに容認して。SLOPの屋号をつけたときの想いを、今後も忘れないように参りましょう。と、ヒリヒリした気持ちで自分に言い聞かせる苦笑

尾崎豊が歌う「愛」

「仁」について取り上げると、どうしても「愛」が切っても切り離せなくて…。

いきなり尾崎豊が出てきてしまいました。尾崎はファンというか、私淑する人物です。巷ではいろいろなイメージがついてますが、僕は中学生の時に知って、すでにこの世に存在していなかったので作品でしか彼にふれることはありませんでした。彼の作品は、当時のモヤモヤした気持ちを代弁してくれて、精神安定剤のような作用がありました。

 

尾崎豊のファーストアルバム「17歳の地図」に"愛の消えた街"という曲があって、名曲"I love you"を俯瞰して描いている曲だと僕は捉えています。

その"愛の消えた街"という曲は、社会にたいしてネガティブな描写をしています。確かに、そうした面もありますが、けしてそうじゃない部分もあります。世の中、実はそんな捨てたもんじゃない。彼が悲観的に捉えているから、彼のいう「愛の光」が見えないんじゃないかなと、僕は思っています。そう、愛はないと思えば、ない。あると思えば、あるんです。

いったい愛の正体は、なんなのでしょうか?仁が関係していると僕はにらんでいます。

 

歌詞をみてみましょう。

 

  • 愛の消えた街さ昔から
  • そうなのだろうか?
  • それが当たり前と言うには
  • 俺はまだ若すぎる
  • 見つけたい 見つけたい 愛の光を
  • 信じたい 信じたい 愛の光を

 

愛は、気持ちの在りようで、如何ようにもなる。

 

愛は見つけていくものだとしても、

周りに求めて、探しても、見つからなくて。

心の中で発見、気づいていくものなんだと思う。

 

仁だってそう。

もうすでに、心の中にあるから。

外から調達したり、もらったりするものじゃない。

 

僕の仮説は、

愛は、信じるものであり、

実は、与えてもらうとか、与えるとか、というものじゃない。

仁も、与えるとか、与えられるという表現はむいていないし。

思いやりを与える。思いやりを与えてもらった。なんて日本語、おかしいですよね。

思いやりを持っている。愛を持っている。持っているというのは

信じ続けて、キープし続けているから。持ててる。

愛も、仁も、心から信じ続けられるかが、限界突破する鍵なんだと思います。

 

そう、ただただ、信じ続けること。

どうせ無理とか思わずに、うまくいかなくても、それでもクライアントを信じて、応援し続けること。

たとえ、嫌な感じで取引が終わったとしても、連絡しなくても。思い出した時には、ネガティブな言葉を心で投げかけずに、ポジティブな言葉を投げかけて行こう。いつの日か、気づいたことは、省みて次に生かそう。

そうした頭に浮かんがことにたいして、感情的にならずに、メンタルを消耗しない。

感情的に反応したり、メンタルを消耗して、ストレスを抱えるようでは、無理して愛を信じていることになるから。

愛情は、ご機嫌度合いのバロメーター

そう思えないときは、さっと隠れて、人知れず、自分を満たすためセルフケアしよう。

だって、僕は完璧じゃないから。

人間だもの^_^

 

  • 受け止めよう
  • めまいすらする街の影の中
  • さあもう一度、愛やまごころで
  • 立ち向かってゆかなければ
  • 受け止めよう
  • 自分らしさにうちのめされても
  • あるがままを受け止めながら
  • 目に映るものすべてを愛したい

 

これは、尾崎豊のセカンドアルバム「回帰線」の中にある“存在”のサビの歌詞

“愛の消えた街”から一転してポジティブに捉えた描写だと捉えています。

この曲は、正直、不器用そうだし、ちょっと青臭い…。でも、ピュアで、愛の光が輝いている。

 

この歌詞を見てしんどいときは、OFF

この歌詞を見て勇気が沸いたら、ON!!

 

明かりのつけっぱなしは、消耗するし、無駄使いだからね。

足りないときは、いざというときのために、省エネで行こう。

 

僕が果たすべきは、一隅を照らすこと

僕の、愛の光。

その光を、なんで発するの?

しんどいよね。

 

でも、その光は、せっかく生まれたんだから、輝かせないといけなくて。

いけない?

いや、否が応でも突きつけられる問題で。

使命。ミッション。

天命?いや、義命。からの立命。

社会の役割。天から与えられた役割。

そうしたものから逃げちゃったら、なんで生まれたの?ってなってくる。

神様がいたとしたら、だったら、最初から生まれなきゃよかったじゃん。って。

あ、両親の都合で勝手に生まれてきたんじゃなくて、自分がそうした境遇やら宿命を望んで生まれてきたという前提で、話を進めますね。

明徳を明らかにして、役割を演じて、命を全うすると。

その光で周りを照らすこと。

たとえちっぽけでも。

自分を頼りに生きるために。

自分に自信が持てるよう、生きるために。

誰かに寄っかかるだけじゃなくて。

散々、これまで寄っかかって、助けられてきたから。

両親にも。周囲の皆様にも。環境にも。社会にも。

身の回りに使っているモノもコトも、先人の知恵や努力の恩恵で成り立っている。

それを思うと、なんだか、自分もそっち側に行かなきゃいけないって思ってくる。

もてなす側にまわらないと、自信も持てないし、成長した気分にもならないし。人生これでよかったって思えもしない。

最高の人生を、生ききるために。

笑顔で、輝いていかなきゃ^_^

 

アンパンマン

無条件に幼い子に好かれるアンパンマンの魅力!

お腹を空かしたカバオくんに、自分の顔を食べさせてあげる。

そうした振る舞いが、まだ言葉を持たない幼い子に、共感を生んでいるところが、好かれている理由なのだろうか?そんな風に、思いたい。

こんな話を思い出す。お母さんの膝に乗ってようやくちゃぶ台の高さで食卓に顔を出せる幼い子が、ご飯をこぼしながらおさじで一生懸命食べている。ふとお母さんの顔を眺めて、おさじをお母さんの口元にやろうと手を伸ばす。そんな微笑ましい光景とアンパンマンの行為がつながるんです。人は、小さい頃から、教わってないのに、すでに知っているんですよね。思いやりを。

 

いろんなことが重なって、曇らせてしまう。そんな、すなおな気持ち。

アンパンマンを思い出して、忘れないようにしたい。

野に咲く花のように

実際の山下清はどんな存在だったか、もはや知る由もないのですが、「裸の大将」と言う番組を幼い時に見ていました。山下画伯のひょうきんなところ、やさしいところ、昭和臭くて好きです。それに加えて、ダ・カーポの“野に咲く花のように”の曲がやさしい気持ちにさせてくれます。そんな風にいきたいなと。野に咲く花は、何も美しく咲こうとか、街の花屋さんの店頭に並ぼうとか、余計なことを考えていません。何にもよらず、ただただ自分の命を生ききる。あ、いや、何も考えずに生きると言うわけではないのですが、欲望で感情が揺さぶられすぎないようにしつつ、心の声をちゃんと聞きながら、丁寧に生きる見たいなね^_^

あと、苦手なことや自分の嫌な部分(コンプレックス)をどれだけ克服できるかとか。小さい時は嫌いだった「薫」と言う名前。身内からこんにゃくとか女の子っぽいといじられて、いじけていた自分。そんな自分もさらりと流して、野に咲く花が薫るような、そんな生き方を選択していきたい。

最後に

いかがでしたでしょうか。結局、なんのまとまりもなく、ただ徒然なるままに「仁」について書き綴ってしまいました…。

サーバントリーダーになる上で欠くことのできない「思いやり」。

屋号のSLOPに恥じないよう、持ち続けていきたいです。

いや、持とうと思うとすでに違ってくるから。意識せずに振る舞えるくらいエネルギーを普段から容量を満たしておくことが肝要ですね。

この記事を書いた背景も、そんなエネルギーが足りなくて、もがいた結果です。大人になっても、いくつになっても、ずっと苦悩し続けるんでしょうね。こうした人間関係から生じる悩み事って^_^

 

そのときどきで、こうした気持ちを遮断せずに、受け止めて、しなやかに参りましょう!

最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

 

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